自殺
芸能人の自殺が後をたたないですね。
しかも実力者ばかりです。
本当に悲しい。
自分の人生の辛さを爽やかなキャラクターで完璧に隠せるほどの演技力を持っていると解釈することもできるわけだ。
確実に言えることは自殺してしまう人は必ず辛い心情を抱えているということだ。
取り巻く人たちから聞くことは、
『なんでもっと早く気付いてあげられなかったのか』
といった言葉だ。
その『早く』とはいつなのだろうか。
『死んだ方が楽だ』と思っている人は実に多い。
何気ない会話の冗談にもよく使われるくらいポピュラーな言葉ではあるが、この言葉、どこの誰からの情報なんだろうか。
一度死んで帰ってきたやつがコタツでお茶を飲みながら『いやぁー死んでるときゃー楽でいいぜー』
なんて言ったのか。
それともネットのブログで死んだときのメリットデメリットみたいな記事が出ていたのか。
そんなはずはない。
死んだらこの世には帰ってこれない。
一度死んで心肺蘇生で助かった人はいるが、それは死んだわけではなく生きていてよかったという表現が正しいわけだ。
死んだ方が楽だのマシだのよく聞くが、その表現は実に何かのせいにしていて甘ったれた下品なゴミグズの思想だ。
まず死んだこともないのに楽だと知っているわけがない。そもそも嘘をついている。嘘つきは最低だから、この時点ですでに最低なのだ。
それを死という恐ろしい謎に人々が望む楽しみという概念を混ぜ合わせて文章にする。
この悪しき流行り言葉はこうして沢山の有能な人たちに『もしかしたら』という思考を植え付けるのだ。
様々な言葉が行き交うのは日本だけではないのだが、日本語ほど言葉の解釈の多様性が豊富な言語はない。
人称が極端に少ないとされているから自己主張が少なく、時に外交では曖昧ではっきりしないと批判されることもあるわけだが、日本人にしか理解することが困難な情緒や風情がある。
何百年も進化を続けて今も尚その進化が衰えることはない。
そんな日本という国の素晴らしい言葉、日本語。
私たちはこれからこの日本語でどうやって人を幸せにしていくのかを考えていかなければならない分岐点に立たされている。
自殺をした人たちに対し、もっと早く気付いてあげられたらという言葉は実に失礼だ。自殺した人にも遺族にも、そしてそれを言った自分自身にもだ。
私は年老いて亡くなった父にかける言葉はいつも『ありがとう』である。
育ててもらって、最後まで笑っていたからだ。
お迎えがきた人にしか私たちはありがとうと言うことはできない。
お迎えが来る前に自ら世を去ってしまった人には『ごめんなさい』としか思えないのではないか。
どう考えても普段の生活、普段の言葉、それが大切なのではないか。
もっと早く気付いてあげられたら、なんてテキトウな事を言うな。
近くにいる人を大事にするためには何が必要か。
普段から自分の使っている言葉を大事にするしか方法はないんですよ。
友達にありがとうを言えているか。
家族に感謝の気持ちを持てているか。
恋人に自分の意見ばかり押し付けてないか。
いつも誰かのせいにして自分を正当化していないか。
人の気持ちなんか分からないけど、自分がどうしたいのか自分が何をしてあげたいのかくらいは分かるでしょう自分なんだから。
と、鬼のような形相でこの文章を書いている自分に反省しながら今日はここまで。
そして私の大好きな俳優、女優の方々に心よりご冥福をお祈りいたします。